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2005年6月30日

やることに困らない4歳の子どもがうらやましい

 お酒を飲まないと、人生を二倍に使えるのではないかと思う時があります。食事をして、お酒を飲むといい気持ちになって、後は寝るだけですが、飲まないと通常の場合なら、それから寝るまでの間、自由な時間が何時間か残ります。

 私の場合は現在4歳のよい子のおねむの時間に従って、遅くとも9時30分には床に入ってしまおうとするので、酒を飲まなくても、残りの時間はありませんが。(子どもを寝かせて何かしようと思うなら、もう一度夜中に起き出すか、朝早く起きてごそごそやるかですが、どちらもちょっと次の日にこたえます。)
 それはさておき、仕事がそれほど日常生活にまで浸食してこないなら、食事以外の時間のかなりな時間が、本当は自由な時間として残るはずです。
 皆さんはその時間をどうお使いでしょうか。今頃の日が長い季節になると、たまに定刻に仕事を終えて帰宅すると、これからもう半日ほども余分の時間が恵まれているような気がするのは私だけでしょうか。
 お酒を飲まなければこんなにたくさんの時間が自分に与えられていると分かっていても、ついお酒を飲んじゃうんですよねえ。
 でも本当は、「お酒を飲まなければこんなにたくさんの時間が自分に与えられていると分かっているから」逆にお酒を飲んでしまうのじゃあないかと私は思います。
 自分自身に与えられた自由な時間がふんだんにあって、その自由な時間をどう使っていいかもてあまし、恐れて、お酒を飲んでごまかしてしまうのではないかと思うのです。
 自分に自由になる時間がいっぱいあるとして、皆さんはそれをどう使うでしょうか。例えば、とても忙しかった仕事の合間にふっとできた休暇なら、「あれをしよう」「これをしよう」と誰しも思うのですが、そのような時だけではなく、人生の中で、与えられた時間を自分自身の責任で全て管理して消化していかなければならないとすれば、かなり大変なのではないでしょうか。
 定年退職して濡れ落ち葉になるという話はよく聞きます。確かに会社ではそれ相応の地位にいて、色々な人がそれ相応の対応をしてくれたのに、その肩書きがなくなった途端に見向きもされなくなるということもあるでしょう。
 でも私は、そのことよりも、自分に与えられた全ての時間を自分の責任で、自分が意義があると思える形で消化していかなければならないことの困難さが問題なのではないかと思います。
 仕事をして、それで満足かといえば、それはそれで不満はいくらでもあるわけですが、少なくとも仕事を自分の人生にとって必要ないと思っている人はいないでしょう。仕事の場合は、それをやっていれば、「それをやることが、自分にとって意味のあることか」「やるべきか、やらざるべきか」という根本のところを自分に問う必要がいっさい省略されるのです。
 私は色々多趣味だと思われていて、私の妻でさえが「私が退職してもやりたいことがいっぱいあって、濡れ落ち葉になるなど想像できない。」というのですが、ことはそんなに簡単ではありません。私のような「遊び人」と思われているような人間でさえ、おそらく仕事があるから、それを支えにして、それを柱としてと言ってもいいかもしれませんが、ちょろちょろと本質的な部分ではないところで「遊んでいる」というだけのことが多いのではないでしょうか。
 つまり、仕事を取ったら何も残らないのです。
 このように、「与えられた時間を自分自身の責任で全て管理して消化していく」というのは、普通想像する以上にかなり困難なことなのです。しかし、「何をして過ごせば自分が豊かに感じて過ごしていられるか」ということをぼちぼちにでも考えていかないと、結局仕事や育児や、その他自分が無意識のうちに依存して生活しているもののために自分の人生をすべて献げてしまうことになります。普通人は何もそんなことは考えずに、たぶんその時々で色々一生懸命考えて結局自分の人生などは生きていないのではないでしょうか。
 その点、4歳の我が子を見るととてもうらやましいです。今何をやりたいかがはっきりしていて、寝るのが嫌で、常に「今」これをやりたいということを持って生活しているのですから。

投稿者 nekofumio : 19:24

2005年6月18日

ストレスが酒を飲む

 毎日「えらい」「ストレスがたまる」「面白くない」などと言って、お酒を大量に飲んでいませんか。
 私もちょっとアル中気味になっているのか、暇があると何となく酒を飲まなければならないような雰囲気になっていました。本当に欲しいのかどうか分からないのだけれど、何となくお酒に手が伸びてしまうんです。
 ところが、昨年の終わり頃、自己啓発の本を読むようになって、ちょっと状況が変わってきました。食事の時にあれほど飲んでいたお酒が、あまり欲しく思わなくなったのです。飲まなくても我慢できるし、飲んでも本当に小さいコップに一杯。

 以前飲んでいたときにはお酒の味なんて良く味合わないままどんどん惰性で飲んでいたのに、それだけ飲んだだけで、結構お酒の味を本当に感じながら、たくさん飲んでいたときよりも結構気持ちよく酔って飲めるのです。そのような経験をして、「ああこれは、自分が酒を飲んでいたというよりも、ストレスが酒を飲んでいたのだな」と思いました。自分じゃあない何者かが、自分の体を使ってお酒を飲んでいるんです。
 それで、最近はどうかというと、お酒を飲まなくなって、食事の時にご飯を食べるようになったのは続いているのだけれど、自己啓発の本を読まなくなって、そんなこともあまり考えなくなって、また酒の量が増えつつあるといった状況です。たぶん酒が無くても良くなっていたときよりも、前向きなパワーが自分でもかなり無くなってきたように思います。何とか、また自分でしなければいけませんねえ。
 それが簡単にできればいいのだけれど、なかなかそう簡単にはうまくいきません。
 時代劇などを見ると、「あー、うめえ」といって、お酒を飲むシーンがよくありますよねえ。あれを見て、「今は物が豊かになってお酒などにも慣れっこになっているから、お酒のありがたみも分からなくなっているのではないかな」と私は思っていましたが、そればっかりでもないようです。時代劇の中でも出てくる飲んだくれは、たぶんやはりお酒のおいしさなんてのは感じていないのではないでしょうか。
 私はお酒に「うまい・まずい」がないとは言いません。やはりよいお酒はおいしいです。でもその酒をたくさん飲んでも、それほど自分が豊かには感じられない飲み方をすることが我々には多いのではないでしょうか。
 たぶんそれは、ストレスが酒を飲んでいるのです。

 と、こんな話を書きながら、朝っぱらから安酒をのんでいてはいけませんよねえ。

投稿者 nekofumio : 09:12

2005年6月 8日

自分の幸・不幸を他人に依存させない方がよい

 誰か他の人に対して、例えば配偶者であったり、恋人であったり、子どもであったり、上司・部下であったり、「どうしてこうなんだろう」「こうしてくれないのだろう」と思って悩んだことはないでしょうか。
 そうしてその人に対して当たってみたり、恨みに思ってみたり、あるいはそうしてくれない原因が自分にあるのではないかと考えてむやみと落ち込んでみたり。

 確かに他人の行動について自分に原因がないかと考えてみることも大切なことだと思います。自分のちょっとした言動が、他人を傷つけてしまうこともあるので、そういうことについて、常に自分の身を振り返ってみる姿勢はとても大切です。
 しかし、他人との人間関係について自分の身を振り返り、あれこれ悩む場合には、我々は必要以上に自分を責めすぎてしまうことが多いのではないでしょうか。
 相手と自分との出来事について悩む場合、考え続けていると、思考の対象となる相手と交わしたちょっとした出来事に対してでさえ、繰り返し何度も何度も、考えられるありとあらゆることについて考えをめぐらし、その原因を自分に求めて右往左往してしまいます。そして、むやみやたらと落ち込むのです。
 それで原因が見つかればそこを直していけばよいのですが、何やら訳の分からないことの方が圧倒的に多いはずです。
 考えてみれば、相手が自分に好意的に行動してくれないことも含めて、「相手の行動の原因が自分にある」と考えるのは、自意識過剰なのではないでしょうか。
 相手は自分のことを、自分が相手を意識しているほどには考えていなくて、自分のペースで自然に振る舞った結果、自分が思うような行動をしてくれないことも多いはずです。
 そのような時に、「相手が思うように行動してくれない」といって落ち込むのは、結局、自分の幸・不幸を他人に依存させているということにはならないでしょうか。そのようなことをしていては、結局、相手が自分の望むような行動を取ってくれない限り、自分が幸せにはなれません。そしてたぶん、相手が自分の望むような行動を取ってくれている時にも、「これは何かの間違いではないか。今に自分の本性に気がついて、そのうち相手が離れていってしまうのではないか」などと考えてしまうのです。
 私自身、つい最近までこういう生き方をしてきました。そしてそのことに最近やっと気がつきました。これでは、自立した人間として生きているとはとても言えません。
 他人は、自分の意志とは関係なく、自立して生きています。その他人が、自分に関わってくれてうれしい時には大いに喜ぶべきですが、思うように関わってくれないからといって悲しむには当たりません。無理矢理にでも、自分は自分として、他人に依存しなくても幸福でいられる、少なくとも不幸ではない己のあり方を求めていくことが、結局は自分の幸福につながっていくのではないでしょうか。
 これは言うは安く、実際に行動するのは難しいかもしれません。しかし、そのような生き方を求めていれば、「相手が自分と関わってくれることが当然だ」というような甘えた考え方からは逃れることができます。そうすれば、相手が関わってくれないことをそれほど深刻に悲しむこともなくなるし、相手が関わってくれる喜びもいっそう身にしみます。
 「このように自分自身が自立していくことが、結局は自分自身も他人も幸せにする道だ」と、最近私は考えています。

投稿者 nekofumio : 10:47

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